マルハ大洋スポーツ

(原則日刊)2016年3月15日 第3種郵便物認可

ファミスタハックロム1984年版基礎研究⑦:「ヤクルト」編

Vol.7 1984年 ヤクルトスワローズ編

ファミスタハックロムIPSパッチを使用して、1984年版のプロ野球ゲームを
試遊する企画


大好評を頂いております当該企画の第7弾。

今回は、セリーグ編に突入して、1984年のヤクルトスワローズ特集である。

以前紹介した、横浜大洋ホエールズの稿では、もう少し自分自身の当時の思い出と

リンクさせたエピソードを盛り込めばよかったと反省しているが、その点については、

また機を改めて紹介できればと思う。



さて、84年のヤクルトだが、筆者としては贔屓のホエールズともども、80年代

セリーグBクラスの常連で、とことん弱かったイメージしか残っていない。

この年も、51勝71敗の借金20で、任期3年目の武上 四郎監督が途中休養、続いて、

中西太、土橋正幸が監督代行を務めるなど、チーム状態は火の車に等しかったの

だろう。

85年と86年は、土橋監督だったが戦力が整わずに連続で最下位。

87年に関根潤三監督に代わり、3億円のメジャーリーガー、ボブ・ホーナーを

獲得して耳目を集め、4位まで順位を上げるが、基本はBクラス止まりのチーム。

Aクラスへの浮上は、野村克也監督が率いた、1991年まで待たねばならなかった。


以上のような、スワローズ弱小期に、熱烈なヤクルトファンが小・中学校の

クラスメートに存在した。その子とは、小学5・6年、中学2年生時に同じクラスと

なり、妙に気が合ったので、登下校も一緒。

(幸運にも筆者の少年期は、気の合う友人に恵まれたので登下校は複数人のにぎやかな

 ものとなった。)

よくプロ野球やF1、テレビゲームの話に熱中したものである。


ただ残念なのは、1992年におけるスワローズの14年ぶりのリーグ優勝の際は、

既に高校2年生になっていて、お互いに別々の高校へ進んだために、そのヤクルトファンの友人から、優勝の歓喜の内情を聴くことができなかったことである。

低迷していた頃から、熱心に応援を続けてきただけあって、初優勝の喜びも

格別なものがあっただろうと察するのだが、その気持ちを直接本人から聞く機会が

あったならばという思いが今でも残っている。



パスワードコンテニュウ制の勝ち抜き戦も、セリーグ対決へ。

第6戦は大洋対ヤクルト戦


スワローズの先発投手陣

おばな (尾花 高夫)

かじま (梶間 健一)

たかの (高野 光)


尾花と梶間は、80年代のスワローズを代表する左右のエース格。

ともに二桁勝利を挙げるが、同じくらい敗戦も喫してしまうという弱小チーム

ならではの成績に終始するシーズンが続く。

しかし、投手としての実力は申し分なく、尾花は正確な制球力とカーブ、スライダー、

シュートを駆使する技巧派、梶間は左の変則投法で、的の絞りにくい投手だったように

思う。

高野は、84年が1年目のシーズン。ルーキーながら開幕投手を務める。

速球が持ち味で、先発にリリーフに活躍するが89年以降は故障で離脱する。

92年の4月に先発で復活勝利を挙げるまでに、1092日を要した。

以後も肘の故障は完治せず、実働8年の短命投手で終わってしまった事が残念で

ならない。




野手陣のベストメンバー


1番(遊)みずたに 【水谷 新太郎】

池山隆寛が1軍に定着するまでは、ヤクルトの遊撃は水谷がずっと

レギュラーの座に居据わっていた。

俊足で巧守。打撃もしぶといものがあった。まさに「いぶし銀」の選手である。



2番(三)すみ 【角 富士夫】

スワローズの2番をずっと打ってきたイメージが強い。

一時はホーナーや、長嶋一茂の入団でサードの定位置を脅かされたこともあったが、

実力でポジションを奪い返す。

1989年に1000本安打達成。1990年には初の3割マーク。91年はGG賞受賞と、

晩年になっても力を発揮。息の長い選手であった。



3番(左)わかまつ 【若松 勉】

小さな大打者。通算打率.319 通算本塁打220本 首位打者2回

脅威の3番打者として、長らくチームに貢献した。

1987年のシーズン早々に、守備で自軍選手と交錯して大怪我を負ってからは、

代打一筋。

その代打をコールされた際の大歓声と、代打でも3割5分を超える高打率という

無類の勝負強さを筆者は忘れていない。



4番(二)まるかーの 【ボビー・マルカーノ】

もとは阪急ブレーブスに在籍していた外国人選手。

実績のある選手の為に知名度は高いはずだが、私は残念ながらプレイヤーと

しての印象は残っていない。

当時はまだプロ野球に詳しかったわけではないので、スポーツニュースなどで

「マルカーノの7号ホームランが~」と報道されると、私は「丸川の7号ホームラン」

と聞き違いをし、ヤクルトにはマルカワという名の日本人選手がいたと勘違い

していたくらいである。

だって「丸川製菓のバブルフーセンガム」という駄菓子があったではないか。

そこから連想してしまっていた。



5番(中)すぎうら 【杉浦 享】

スワローズ一筋22年のチームを代表する選手。

キャリアハイは、85年の.314 34本塁打

ガッチリとした体形からは想像もつかないが、通算盗塁数は109。

5年連続で2けたの盗塁数を記録したこともあり、意外と足は速かった。

1992年の西武との日本シリーズ第1戦で放った、代打サヨナラ満塁本塁打は

今も鮮明に記憶している。



6番(捕)やえがし 【八重樫 幸雄】

元祖眼鏡をかけた捕手。独特のオープンスタンスは、みんな草野球で

ふざけて真似をしたものである。

肩が弱く、捕手としての守備面ではいい評価が為されていないが、

打撃は一級品で、左腕投手やここ一番の勝負どころで強かった印象が

残っている。



7番(一)わたなべ 【渡辺 進】

私の記憶では、内外野どこでも守れるユーティリティ選手、右の代打切り札という

イメージだが、80年代前半は常時スタメンに名を連ねて、長打も期待できる選手

として欠かせない存在だったようである。



8番(右)おがわ 【小川 淳司】

私の友人のヤクルトファンが、特に応援していた選手である。

左投手に強く、1987年には、荒井幸雄と交互で1番を打っていた覚えあり。

応援歌が「インディ・ジョーンズ」のテーマ曲だったね。

これもNiceな選曲だと思う。



スワローズの控え投手



スワローズの控え野手

げんおか(玄岡 正充)

いわした(岩下 正明)

すぎむら(杉村 繁)

すみす (C・W スミス)

おおや (大矢 明彦)


玄岡や岩下は、スタメンでも結構出ていた選手なので、なんとなく覚えている。

大矢がまだ現役だったのは意外な発見。




珍しく大洋打線がつながったので、一発で勝利しました。


次回は、1984年 阪神タイガース編


(続)





ファミスタハックロム1984年版基礎研究⑥:「阪急」編

Vol.6 1984年 阪急ブレーブス編

ファミスタハックロムIPSパッチを使用して、1984年版のプロ野球ゲームを
試遊する企画


大好評を頂いております当該企画の第6弾。

やはり皆様、昭和の古き良き時代のプロ野球の話題には、大きな関心をお寄せ

頂いているようで、筆者としてはこの上ない僥倖と存じている次第である。

職業野球の歴史も、早や80年を超過し、ある時期におけるプロ野球の時代背景を

振り返る事の有用性を明示する為に始めた当企画。

本稿が終われば引き続いて、セントラル・リーグ編へ突入し、最後はパリーグで

一つ残っている日本ハムファイターズで締めくくる予定となっている。

弊紙の熱心な読者諸氏におかれましても、ご贔屓の球団が登場すると思われるので、

該当稿でしばし懐旧の念に親しまれて頂ければこれ幸いである。


さて今回は、1984年 阪急ブレーブス編。



上田 利治監督の下、75勝45敗10分、貯金30の堂々優勝。

三冠王のブーマーを筆頭に打線が活発で、攻守ともに他の5球団を圧倒する

チーム力が備わっていた印象。

筆者は阪急について詳細に覚えているわけではないのだが、テレビ埼玉の

ライオンズ戦中継で何度も目にしているので、多少の印象は残っている。

また、1980年代の当時は、関西のローカル局「サンテレビジョン」での阪急戦、

阪神戦中継が、UHF局のネットワーク網を駆使する形で「テレビ埼玉」でも

年に数回は放送されたため、筆者の地元でも見ることが出来たし、実際に

何度か見てきた記憶がある。

よって阪神も阪急も、筆者にとっては多少馴染みのある球団ということが出来る

と思う。「テレビ埼玉」では他に、TVKからの回しで大洋戦の中継も結構行われていた

ので、もうほとんどシーズン中は休みなく、野球中継が行われていた感じだった。

筆者は日本テレビの巨人戦よりも、こちらを見ることが圧倒的に多かったので、

(必然的にジャイアンツかぶれにはならなかった。)

少年期は「UHF育ち」という事ができるだろう。

ついでに、サンテレビジョンには、マーティ・キーナートさんという、日本語のうまい

米国人野球解説者がいた。この方の解説も分かりやすく、的を得た内容だったことも

印象深い。


阪急ブレーブスに話を戻すと、その後1987年に、山沖が19勝して先発陣の柱として

奮闘し、4番の石嶺が前半戦に打ちまくって、夏場まで首位を快走していたのだが、

最終的に打線は弱かったが、投手陣が安定していたライオンズに優勝を攫われて

しまった。抑えのアニマル投手の乱調、ベテランの佐藤、山田両投手が後半戦に

打ち込まれたケースが目立ったことが敗因だろう。

1960年代後半から、1970年代にかけて常時優勝争いを演じた名門チームも、

1988年を最後にオリエント・リースへ球団譲渡。

この件は、南海→ダイエーの譲渡と違って、全く各種報道などで前兆がない話だった

ので心底驚いたものである。


また阪急といえば、西宮球場のブレーブス応援団というか、ブラスバンド隊の

トランペット演奏が素晴らしかったし、ヒットで出塁したときのテーマ曲

(名前が不明で表現しようがないが、阪急ファンだった方なら分かるはずです。)

も懐かしい記憶として鮮明であることを付記しておく。



パスワードコンテニュウ制の勝ち抜き戦も第5戦まで来た。

大洋対阪急戦


ブレーブスの先発陣

いまい (今井 雄太郎)

さとうよし(佐藤 義則)

やまだ (山田 久志)


「酒仙投手」こと今井雄太郎が21勝で最多勝獲得。

佐藤は17勝、山田が14勝。この3本柱で多くの貯金を稼いだ。

他の先発としては、左腕の宮本四郎が8勝で続く。この宮本は、もともと大洋の

投手であったが、左腕不足にありながら、どういうわけか1982年に阪急へ放出。

ホエールズのトレード下手や選手放出の不可解さは、12球団でも突出していたが、

その悪しき現象は、ここでも散見されるわけだ。




野手陣のベストメンバー


1番(中)ふくもと 【福本 豊】

世界の盗塁王。1972年のシーズン106盗塁は永久に破られることはないだろう。

実働20年で通算打率.291 通算本塁打は208本もあり、長打も含めて打力にも

優れていた点は見逃せない。



2番(遊)ゆみおか 【弓岡 敬二郎】

阪急の2番といえば、福良よりも弓岡のイメージが大きい。

1986年までは、福本、弓岡で不動の1,2番コンビを組んでいた。



3番(右)みのだ 【蓑田 浩二】

1983年にトリプルスリー達成。攻守走に優れた万能選手であった。

1986年に怪我をしてからは成績が急降下。87年限りでジャイアンツへ移籍。

巨人では1番で先発出場する機会が多かったので、ご記憶されている方も

少なくないはず。



4番(一)ぶーまー 【ブーマー・ウェルズ】

外国人選手初の3冠王に輝いたのが、この年84年。

チームの優勝に大きく貢献したこと言うまでもない。

日本球界での在籍期間も長く、パワーのみならず選球眼が良く三振が少なかった点や

右打ちも上手かったことも印象的である。



5番(三)まつなが 【松永 浩美】

この選手も攻守走、三拍子そろったマルチプレーヤー。

85年には4番を打つこともあり、名実ともにチームの顔的存在。

1988年に惜しくも首位打者を逃し、タイトルホルダーになれなかったのが

悔やまれる。92年オフに、野田 浩司とのトレードで阪神へ。

阪神移籍後、開幕の中日戦でいきなり4安打か5安打を放って驚いた記憶がある。



6番(左)こはやしS 【小林 晋哉】

この選手は、左の代打切り札のイメージがあるが、84年はレフトのレギュラー。

日本シリーズでもフル出場して、結構活躍したのではなかったかと思う。

筆者は当時から、こういう渋い選手に関心があったので、おぼろげながらの

記憶が残っていたりする。



7番(捕)ふじた 【藤田 浩雅】

ルーキー捕手ながら22本の本塁打を放ち、堂々の新人王獲得。

とんでもない捕手が現れたもんだと、子供心にぶったまげた記憶がある。

その後、1987年まではレギュラー捕手だったが、1988年に強肩の

中嶋 聡が台頭してからは出番が激減。

1992年に巨人へ移籍も結果を残すことは出来なかった。



8番(二)ふくはら 【福原 峰夫】

正二塁手のバンプ選手が絶不調だったため、後半戦からレギュラーを務める。

84年の日本シリーズでは、第6戦に満塁ホームランを打って、その名を

全国に轟かせた?かどうかは知らないが、意外性の一発ということで

筆者には鮮烈な印象を与えた。

打撃に難があったので、準レギュラーだったのは84年限り。しかし、守備力に

定評があったので、その後も1軍のベンチに入る機会は多かった。

今年(2017年)より、ベイスターズの2軍守備コーチに就任。



番外編:投手の控え



番外編:野手の控え

みずたに(水谷 実雄)

いしみね(石嶺 和彦)

ばんぷ (バンプ)

やまもり(山森 雅文)

なかざわ(中沢 伸二)


1983年打点王(水谷)、将来の4番候補(石嶺)、

フェンスよじ登りスーパーキャッチ男(山森)と、控えの野手陣も錚々たるメンバーが

控えている。

その中でも特に山森という外野手は、守備が素晴らしかったのだが、打つ方も二けた

本塁打を記録したこともあるなど、かなり優秀な選手であった。

ブレーブスの外野陣の層が厚く、レギュラーとして働いた期間が少なかったのは残念。



試合の方は敗戦してしまったが


筆者は、オバQ田代とレオンのホームラン攻勢で、阪急ブレーブスを

丸呑みする予定だったのだが、なんと、人生初の対コンピュータ戦で

完全試合を喰らってしまったのである。

誠に情けない話なのだが、事実だから仕方がない。

しかもやられた相手投手は、今井雄太郎である。今井は実際でも1978年に完全試合を

行っているとはいえ、ゲームの世界でもパーフェクトをやるとは思わなかった。



再戦リベンジ対決


今度は戦術を大幅に変えて、単打で繋いでいくケチケチ野球で戦ったら、

大差で勝利することができた。

しかし、このようなセコイ作戦は今回限りである。次回以降の試合は、

引き続きオバQ田代とレオンのホームラン狙い一点張りの戦術で戦うのみ。

なぜならば筆者は、つなぐ野球よりもホームランをゴンゴン打っていく野球の方が

好みだからである。


しかしながら、筆者も加齢が際立ってきたのか、動体視力が衰えて、

ファミリースタジアムのコンピュータ投手が投げてくるボールの見極めが

困難になってしまった。喫した三振数が多いのはその為でもある。

また、大のおとながいい歳こいて、ファミスタなんかに夢中になるのはアホなんじゃ

ないかとお思いの読者様もいらっしゃることと思う。

その認識は形而下においても75%は正しいと存じるが、25%は重大な誤りだと

指摘しておく。

なぜかと言うに、シンプル画面のファミコン野球を大いに楽しんでこそ、

文化的紳士の教養あふれる嗜みであると信じているからである。


次回は 1984年 ヤクルトスワローズ編


(続)






ファミスタハックロム1984年版基礎研究⑤:「ロッテ」編

Vol.5 1984年 ロッテオリオンズ編

ファミスタハックロムIPSパッチを使用して、1984年版のプロ野球ゲームを
試遊する企画


まず最初に、当記事から閲覧された方で、「ファミスタに84年版なんかあったっけ?」

と怪訝に思われた方はご参考までに、以下をご覧頂きたいと思う。



大好評を頂いております当該企画の第5弾。

今回は、1984年 ロッテオリオンズ編である。


稲尾 和久監督時で、84年は64勝51敗15分の2位。6球団が団子レースになれば、

優勝してもおかしくない戦績だが、首位の阪急がそれ以上に強かった。

とにかく強力打線が売りもので、リー、落合 博満、山本 功児のクリーンアップは

破壊力満点。おそらく当時のプロ野球界では、1.2を争う打線の強さがあった。

3割30本の助っ人、レロン・リーと、三冠「オチアイ」がそろい踏みなのだから、

相手バッテリーに与える脅威は、半端なものではなかっただろう。

翌85年も2位に入り、この頃のオリオンズには、弱小球団というイメージは持っていない。強いて挙げれば、抑えの切り札不在に泣くことが多かったか。


また本拠地であった「川崎球場」は、老朽化が激しく、設備が劣悪にして観客も入らない

球場だったが、そんな中でも、観客がスタンドの傾斜を利用して「流しそうめん」を

行ったり、ガスコンロを持ち込んで、バーベキューパーチーを繰り広げたりと、

来場者の悪ふざけが過ぎたファンキーな場所として、語り草となっている。


今でこそ、広島のマツダスタジアムでは、焼肉のタレをつくっているメーカー

「ゲバラ焼肉のたれ」社が協賛しているシートで、野球観戦をしながら、

バーベキュウを楽しめる仕組みが整備されているが、


野球場における元祖「野外バーベキューパーチー」の勃興は、昔の川崎球場に

端を発するという歴史的事実は、知っていて損のない情報と思う。


しかしあれだな、マツダのバーベキュー席っていうのは、煙をモーモーと

たてながら肉を焼くのであろうが、それでは肝心の野球の行方が疎かになりはしないか?

もっとも、おいしく食べて愉快な気分に浸れればそれはそれで結構な事である。



ファミスタのパスワードコンテニュウ制勝ち抜き戦モードも第4戦に突入。

大洋対ロッテ戦 ブログ記事進行の為にも全球団勝ち抜きが必修となる。


ロッテオリオンズの先発投手陣

ふかざわ (深沢 恵雄)

いしかわ (石川 賢)

にしな  (仁科 時成)


深沢と石川がともに15勝で先発陣の両輪。仁科も13勝。

深沢は二けた勝利をあげたシーズンが3回。村田や荘の陰に隠れて目立たないが、

オリオンズを代表する先発投手である。

仁科も同様。オリオンズ一筋、実働13年で110勝をあげている功労者。

改めて振り返ると、当時のロッテは決して打線だけのチームではなく、先発陣も

充実のスタッフが揃っていた。

尚、村田 兆治がいないのは、右ひじの故障で戦列を離れていたからで、

「サンデー兆治」として復帰するのは、翌85年の事である。




野手陣のベストメンバー


1番(左)しょうじ 【庄司 智久】

新宮商業から巨人、のちにロッテへ移籍。

80年代の前半におけるロッテの1番打者と言えばこの選手である。

西村 徳文や横田 真之の成長に伴って、出番は減少していくが、1987年頃までは

先発起用される機会があったので、何度か見た記憶が残っている。



2番(中)たかざわ 【高沢 秀昭】

走・攻・守 三拍子そろった好選手。1988年に阪急・松永と熾烈な首位打者争いに

勝利してタイトル獲得。しかし、翌年に足の故障を患ってから、急速に衰えてしまった

のは残念。1990年にトレードでカープ移籍も、期待される数字は残せなかった。



3番(右)りー 【レロン・リー】

長い期間、日本球界で活躍された外国人選手。リーディングヒッター争いの上位に

常に顔を出す常連。ラストイヤーは1987年で、すでに39歳を迎えて衰えは隠しようが

なかったが、86年の成績が非常に良かったので、球団もその程度の記録を残せると踏んで残留させたのが誤算となる。

87年は落合が抜け、リーが衰え、打線の核が定まらなかった為に5位へ低迷。

以降、千葉移転後の95年までBクラスが定位置の球団に成り下がってしまった。



4番(三)おちあい 【落合 博満】

偉大な打者なのでコメントは不要だろう。

どうでもよい事だが、中日時代の応援歌が「マグマ大使」だったのは、

番組の提供がロッテだったからだ!といまさらYoutubeの動画で気付いた私である。



5番(一)やまもと 【山本 功児】

この選手もジャイアンツOB。アベレージヒッターでチャンスに強いイメージ。



6番(遊)みずかみ 【水上 善雄】

大型遊撃手。確か3割を打ち、ベストナインに選ばれたこともあったと思う。

言葉は悪いが、現役時代は長髪にしたり、スポーツタイプのアメ車を乗り回したり、

チャラいイメージがあったが、引退後は解説で理路整然とした語り口を披露し、

ソフトバンクの2軍監督をつとめるなど、活躍の場は広く有能な方である。



7番(二)にしむら 【西村 徳文】

プロ選手として台頭し始めたのは、ちょうどこの頃であったか。

85年に3割以上をマークして、新聞の打撃成績で上位にいたことを記憶している。

以後、86年から4年連続の盗塁王。1990年に首位打者。千葉移転後は精彩を欠いたが、

川崎時代のロッテを代表する打者であることは間違いない。



8番(捕)はかまだ 【袴田 英利】

法政で江川とバッテリーを組んでいた捕手。また、村田兆治氏が最高の捕手と

表した選手でもある。プレイヤーとしての記憶はほとんどないが、リードや

守備面で定評のある捕手ではなかったかと思う。

引退後のコーチ歴も豊富であることから、どこかの球団で監督をやっても

おかしくない人材だと思うのだが。



試合は大洋の快勝です。


次回は、1984年 阪急ブレーブス編


(続)







ファミスタハックロム1984年版基礎研究④:「西武」編

Vol.4 1984年 西武ライオンズ編

ファミスタハックロムIPSパッチを使用して、1984年版のプロ野球ゲームを
試遊する企画


大好評を頂いております当該企画の第4弾。

弊紙の熱心な読者諸賢におかれましては、そろそろ退屈のことと思いますが、

そんなこと筆者は知らん。

他に書き得る話題が存在しないという、筆者固有の致命的欠陥に由来する為、

ご承知置き頂くか、あるいは、プロ野球シーズン開幕までお待ちいただくほかはない。

また、話題がないからといって、定期的記事更新を怠ると、そとだ壱閒緊急死亡説が

まことしやかに流れだすので、嫌が応にも記事を書き続けなければならないのだ。

そしてそれは、似非・ジャーナリストを標榜する筆者最大の矜持であり、

言論人としての責任を全うする事につながっているのである。


さて今回は、1984年版 西武ライオンズ編。

廣岡 達朗監督のころで常勝軍団だったが、ちょうどベテランから若手への移行期で

チームはAクラスを死守するのがやっと。その後の黄金期を支える、秋山や辻も

まだいない時代。筆者が少年期を過ごした地域は、西武ファンが多かったので、


この帽子をかぶり、帽子のまわりに選手名と背番号の入った「缶バッチ」を

くっつけるのが、当時の少年たちの定番であったように記憶している。

今では考えられない話だが、本拠地の西武ライオンズ球場で試合が開催される日には、

毎日新聞の朝刊に、来場を促す広告が欠かさず掲載されていた。

本日の対戦カード:西武 対 阪急 午後6時開始 のような感じで。

広告下段には必ず、球場へは電車またはバスでご来場くださいの決まり文句と、

試合開催日は、西武新宿から西武球場前行きの直通電車を臨時増発の文言が。


あと毎日新聞関連では、ある日の朝刊チラシに紛れて、西武球場の外野席招待券が

2枚入っていたことがあった。カードは西武対日本ハム戦。

対象日は台風で中止になり、野球場へは行かなかったのだが中止で正解である。

なぜかと言うに、もし試合が行われていたら、父親と出かける予定になっていたが、

その父親が些細な事で怒り狂う人間で、筆者は幼少期から大嫌いだったため、

一緒に出掛けたくなかったのである。

そんなこともあり、人生最初のプロ野球観戦は、1987年の小学6年生時まで

待たねばならない。その時は、クラスの友人6名と一緒に後楽園球場の日ハムと南海の

試合に出かけた。非常に楽しかったことは言うまでもない。

筆者は父親との間には、何一ついい思い出が存在しないが、その代わりに、

少年期に良き友人に恵まれたので、それで帳消しで結構と思っている。



ゲームの方は、パスワードコンテニュウ制の勝ち抜き戦。

第3戦目は、大洋対西武戦。

オプションで、コンピュータチームを「強い」に設定してみる。



ライオンズの先発投手

ひがしお (東尾 修)

おとまつ (松沼 雅之)

まつあに (松沼 博久)


84年ライオンズの右投手3本柱。杉本 正(のち中日、ダイエー)も左の先発として

活躍したはずだが、ゲームソフトの選手枠の関係でリストから漏れたのだろう。

松沼兄弟はともに、一軍で活躍したことで有名。兄やんの方は、下手投げの技巧派。

個人的に好きな投手であった。

東尾については説明は要らないだろう。250勝越えの大投手である。

一度、83年か84年ころに、ヤクルトが先発を補強するために、西武に東尾のトレードを

申し込んだことがあったが、交換要員(確か井本と渋井?)に難色を示した西武が

無碍にも断っている。まあエースだから出しようがない。



試合開始 球場は「川崎球場」をモデルにしたところ



ホームランを打つと飛行機が飛ぶ



野手のベストメンバー


1番(遊)いしげ 【石毛 宏典】

完全燃焼石毛! 応援歌はウルトラマンセブン。プリンスホテル出身のプリンス。

3割2分台の打率に、25本以上の本塁打をマークする完全無欠の先頭打者のイメージ。



2番(左)たちばな 【立花 義家】

左の代打というイメージが強いが、西武草創期から廣岡政権時までは、

常時2番を打つ巧打者。名勝負の誉れ高い、1983年の日本シリーズ L-G決戦で、

全ての試合でフル出場しているから、覚えている方も少なくないと思う。



3番(三)すてぃぶ 【スティーブ・オンティベルス】

超優良外国人選手 高い打率に勝負強い打者。

当時のパリーグは、態度の悪い外国人が少なくなかったが、この選手は真面目な性格で

常に全力を心がけていた。筆者もファンだった一人である。



4番(一)たぶち 【田淵 幸一】

天才ホームランアーティストも、寄る年端には勝てなかったか。この年限りで引退。

筆者は田淵の豪快なホームランを見たことがない点を残念に思っている。



5番、6番のスクリーンショットを撮り忘れた。


5番(右)じぇりー 【ジェリー・ホワイト】

翌年1985年に、大洋へ移籍(登録名:ホワイト)したので、よく覚えている。


6番(二)やまざき 【山崎 裕之】

パリーグを代表する名二塁手も、このシーズンは衰えの目立つ結果となった。

84年はセカンドを固定できなかった部分も、チーム低迷の要因だったと思う。

テレ東や文化放送で、野球解説者としても活躍された。


ついでに番外編で控え野手


かたひら (片平 晋作)

ゆきざわ (行沢 久隆)

こまざき (駒崎 幸一)

ひろはし (広橋 公寿)

かなもり (金森 栄治)


控え野手もなじみの深い選手が多い。

片平と駒崎は、トレードで大洋にも在籍したのでよく覚えている。

金森は元祖生傷男。死球で派手に痛がる場面が印象的だが、85年には3割をうって

不動の2番打者。

広橋は、左投手に滅法強い打者。近鉄の村田やロッテの水谷を得意にしていた。

応援歌が「素晴らしきヒコーキ野郎」だったのもNiceな選曲であった。



7番(中)にしおか 【西岡 幸洋】

この選手も左投手を得意にしていた。のちに巨人へ移籍。

84年はほぼ中堅のレギュラーだったが、85年は中日から田尾が移籍で来たのと、

岡村 隆則が外野の一角を占めたので、出番は激減したように思う。



8番(捕)いとう 【伊東 勤】

長らくライオンズの正捕手だった選手。若い頃は捕手ながら足の速い選手でもあった。




試合は敗戦 ひがしお のスライダーとシュートを捉えることができず。



リベンジ再戦は薄氷の勝利


次回は、1984年 ロッテオリオンズ編


こうなったら意地でも全球団やる予定


(続)







ファミスタハックロム1984年版基礎研究③:「近鉄」編

Vol.3 1984年 近鉄バファローズ編


ファミスタハックロムIPSパッチを使用して、1984年版のプロ野球ゲームを
試遊する企画



大好評を頂いております当該企画の第3弾。今回は、近鉄バファローズ編。
ファミコン式野球ゲームを通して、昔のプロ野球について偏執的に語る当該記事は、
外部からの検索向けに執筆している。
まあ何ての、何度も筆者は言っているかもしれないが、最近のプロ野球は、
ハッキリ言ってつまらない!
なので、古い時代のプロ野球の話題を展開するにはそれなりの理由があるわけだ。
一種の近代野球にたいするアンチテーゼ、と言えば聞こえは良いがそんなところである。
筆者と同じ思いをしている御仁も少なくないのではないか?
いや「Muragon」参加者ではなくて、日本全国という単位において。
だからそんな思いを抱いているどなたがが、ある日突然、弊紙のこの記事を
検索でたどりついたなら、なかなか愉快な出来事である。
そのために、ともすれば「クダラナイ」記事も手掛けていく。
こういうブログがあってもよかろう。


さて、1984年の近鉄バファローズ編。
筆者は当時、小学4年生。プロ野球を詳しく見始めた時期。しかもセリーグ党の
大洋ファン。バファローズの事はあまりよく覚えていない。
監督は関口 清治だったか、岡本 伊佐美だったかも記憶にない。
あとは帽子のデザインがユニークだったねえ。


これ小学5年のクラスメート、ゲゲミ君(仮名)が被っていたな。
ゲゲミ君は野球が好きではない子だったが、いつもこの帽子被って遊んでた。
ゲゲミ家には、茶色いトラネコを飼っていたのだが、ファミコンで遊んでいると、
いつも筆者の脇腹をスリスリしながら近づいてくるから、結構ビビったな。
まあ筆者はネコが大好きだから特段の問題はないものの、ゲームに集中している
ときに音もたてずに忍び寄ってくるから、ビックリする。



ゲームの方は、パスワードコンテニュウ制を敷いているので、
第2試合目になる。大洋対近鉄戦 



バファローズの先発投手陣
そうこん (鈴木 啓示)
やなぎだ (柳田 豊)
たにひろ (谷 宏明)


「なげたらイカん!」の鈴木啓がまだ現役。
柳田は1987年限りで引退だったが、一応、引退登板も行うほどの
チームの功労者であることは間違いない。
谷 宏明も近鉄の先発として実績のある投手。83年に開幕投手もつとめる。
ただし、85年以降は低迷。88年オフにヤクルトへトレード。
契約更改で現状維持か否かでゴネたのが放出の要因だったらしい。






野手陣のベストメンバー


1番(二)おおいしD 【大石 大二郎】
この年に確か、29本のホームランを打っている。
まだ圧縮バットを使っていた時代?だったかどうか定かではないが、
それにしても1番で30本近い本塁打数は脅威であり、体が小さいのに
パワーがあるなという印象が残っている。



2番(中)ひらの 【平野 光泰】
平野と言えば、中日の平野が有名だが、近鉄の平野も実力者である。
だが筆者はこの選手を見た記憶がない。
1979年、近鉄ー広島の日本シリーズ第7戦。あの有名な「江夏の21球」の
ドキュメンタリーで打席に立っていたシーンは見たことがある。



3番(一)ひでじ 【加藤 秀司】
首位打者1回、打点王3回。1970年代のパリーグを代表する選手の一人。
阪急ー広島ー近鉄ー巨人ー南海と渡り歩きながら、2000本安打達成は、
お見事の一言に尽きる。
セリーグの水が合わなかったのか、広島と巨人在籍時は打撃成績もふるわなかった。



4番(右)でーひす 【リック・デービス】
1988年に大麻所持で捕まった人。以上。



5番(左)くりはし 【栗橋 茂】
この選手はよく覚えている。85~86年は3番DHで出場していたため。
近鉄らしからぬ温厚そうな顔立ちではあるが、右中間に鋭いライナーを
かっとばしていた記憶がある。



6番(三)はだ 【羽田 耕一】
金村義明が台頭するまで、バファローズのサードはこの選手がレギュラーだった。
筆者の記憶は、あの有名な1988年10.19の第2試合で、併殺打を打って最後の打者に
なってしまったこと。



7番(捕)なしだ 【梨田 昌孝】
名捕手、理論家。近鉄のイメージとは相容れないものがあったような気が。



8番(遊)ふきいし 【吹石 徳一】
某女優の父親で有名になったが、現役時代は恐ろしく地味。だが、
村上 隆行の台頭があるまでは遊撃のレギュラー選手。
晩年も内野の控えとしてチームに貢献した。



番外編:控え選手(野手)
なかね (仲根 政裕)
おがわ (小川 享)
かねむら(金村 義明)
たにしん(谷 真一)
ありた (有田 修三)


小川 享がまだ現役だったとは。
あと、金村を入れるなら、慶元 秀章か大原 徹也だろーというツッコミを入れたいところ
ではある。当時のバファローズファンなら覚えている選手のはず。



試合は延長の末に負けた。






しかし敗戦だと終了なのでリベンジ再戦で勝利


次回は、1984年 西武ライオンズ編


なんか飽きてきたので次回は未定