くだらないブログ

                       
                       

2019.3.19 同窓生と遭遇

既に老人レベルの行動パターンに堕した筆者は、例のごとく、日課である徘徊散歩に
出かけている道中、珍しくも中学・高校時代の同窓生に遭遇した。


遭遇したと言っても、気付いたのは筆者の方だけで、向こうは全く気付いていない。
仮に気付いたところで、高校卒業から25年が経過している。当方の事は遥か忘却の
彼方であろう。


同窓生の名を「パンチ釜室の国一揆!」君(仮名)という。
おとなしい性格で、イジメにあっていたという事例は見聞きしたことはないが、
クラス内で孤立していることが多く、気の毒な感じを受ける子ではあった。


そんな釜室君も、いまや中年になって、スーツに身を固めて歩いていく。
顔つきは出征兵士のような悲壮感に溢れていた。颯爽とではないが、口を真一文字に
結び、背筋を伸ばして確かな足取りで、視界の向こうへ消えていった。
そこに、クラス内から爪弾きにされていた当時の面影は存在しなかった。


筆者は彼の人生の成功を祈りつつ、家路に着いたわけだが、仕事に邁進しているであろう
同窓生の姿を見て、普通なら、無職であるおのれの境遇に、大いに恥の気持ちや焦りの
感情が湧き上がってきそうなものだが、一向に、そういうものが現れないのはどうした
ものだろう。我ながら不思議な感覚である。自分の人生を、どこか「他人事」のように
放り投げてしまっているところは、随分と昔からあったにせよ、どうかしているという
気がしないでもない。


筆者の無職生活は、今年で8年目に突入した。一定期間、何もしないでいると、普通なら
何らかの形で社会参画への意欲が高まってくるのだろうが、そういう気持ちも一切無い。
今あるのは、本を読んで知識の習熟に努めたいというだけである。
色々あって、35歳で退職した時点で、心身ともに自分の労力を全て使い果たした感覚だ。言ってみれば、残量の無くなった使い捨て乾電池のようなもの。「人」ではなく、
「モノ」。そうやって産業界は「使い捨て部品」として、筆者を扱ってきたんじゃ
なかったか。アイロニーではなく、現実的表現。二度と世間には貢献してやらないと
決めている。経済的に困窮しようともである。


(了)